【全文公開】〈エッセイ〉新居格と「世界の村」のことなど(大澤正道)

虹霓社より好評既刊の『杉並区長日記ー地方自治の先駆者・新居格』に収められている大澤正道氏によるエッセイ「新居格と「世界の村」のことなど」の全文を公開します。
晩年の新居格と接した大澤氏による貴重な体験をもとにした読み応えあるエッセイです。

わたしが新居と身近くさせていただいたのは「何となく集まる会」あるいは「人間の会」と新居が呼んだ会の末席に列した折である。昭和二十六年の頃だった。この集まりには新居のほか石川三四郎、村松正俊、小牧近江、松尾邦之助らの顔が見えた。

〈エッセイ〉新居格と「世界の村」のことなど(大澤正道)           

 「片付けちゃダメだよ」、部屋一杯、本やら雑誌やら書類やらが散らかっているのを見かねて片付けだしたら、入ってきた新居格に怒られたという話を新居と親しかった遠藤斌から聞いたことがある。
 他人には散らばっているようにみえても、本人にとってはちゃんと秩序立てられている。だから下手に動かされては無秩序になるというわけ。
 新居格というといつも真っ先に遠藤から聞いたこの話が思い出される。ひとにはそれぞれひとの秩序がある、それを尊重しなくてはいけないというのが新居の哲学だったのじゃあるまいか。
 敗戦直後の民主化の大波に押され、日本一の文化村をめざして地元の杉並区長になってみたけれど、ここは自分の座る椅子ではないと気付くや、世評なぞは二の次とばかりさっさと降りてしまうところなどもいかにも新居らしい。
 わたしが新居と身近くさせていただいたのは「何となく集まる会」あるいは「人間の会」と新居が呼んだ会の末席に列した折である。昭和二十六年の頃だった。この集まりには新居のほか石川三四郎、村松正俊、小牧近江、松尾邦之助らの顔が見えた。
 晩年の寂しかった新居を励まし、慰める動機もあって松尾らが発起したともいわれているが、真偽のほどはわからない。
 ちょうど朝鮮戦争の最中で、核兵器の絶対禁止などを訴えたストックホルム・アピールの署名運動が話題を呼び、日本でもなんと六百万人、世界では五億人の署名が集まったという。安倍能成、川端康成、徳川夢声、田中絹代等々錚々たる著名人らも署名している。
 この署名の力で核兵器の使用は朝鮮戦争で見合わせられることになった、と当時国務長官だったヘンリー・キッシンジャーは回顧しているそうだ。そういう時代だった。
 かたや保守系では共産主義に反対して文化の自由を訴えた世界文化自由会議のアピールが行われ、アピール、アピールで賑やかなことだった。
 アピール、アピールはいいが、いつも外国からアピールされ、働きかけられるだけでははなはだ情けない、ひとつわれわれも世界の文化人にアピールしたらどうだとこの会で提案したのは小牧だった。
 それじゃ「世界の村」をアピールしようと賛成したのが新居で、言い出しっぺで趣意書も新居が書くことになった。
 以下にその全文を掲げる。

 「世紀のかがやける良心であるあなた様に夢を封入したわたし共の挨拶を送ることはうれしいことです。
 われわれの前には戦争の悪夢と恐怖の翼が拡がろうとしている。物をいう自由は窒息しようとしています。それだけに考える自由、夢見る自由を一そうつよく把握しなければならぬと存じます。そこでわれわれは『世界の村』のデッサンを描こうとするのです。
 世界の人々が、民族、宗教、国境を超越して小さな村の人々の善意と理解と平和と親睦の生活が可能な境地!
 『世界の村』の人々はカンパネラが[太陽の都]で描いたように、宗教や性や人種の差別もなく、オネートムであり、コンモンマンの寄り集りで、正直、勤勉、自由と清潔とを標章とする働くことを尚ぶ人々です。そして平和に、幸福に美しい集団の生活をする村であり、また、支配する国も、支配される民族もいない人類の植民地でもあるのです。
 国家や民族に未練をのこす秩序は十分なものではありません。でわれわれはコスモポリタンの立場をとります。世界中の心ある人々と精神的なつながりをもつことをわれわれの夢の実現の第一歩と考えたい。なぜなら、個人的な接触と理解とがすべてに先立ちますから。そして地球のどんな隅にいても歌える青天井の歌『世界の村』を作ってこの友情を一そうかためたいと思います。われわれの心からなる友愛のしるしを送り、あなた様の好意あるお返事を待ちのぞみます。」

 趣意書ができたよ、というのでわたしたちは有楽町駅前にその頃ずらっと並んでいた喫茶店のひとつ「シミズ」に集まった。
 「シミズ」は松尾らとわたしたち戦後派がやっていた「同人」でなく「異人」を気取った「自由クラブ」の溜まり場だった。「なんとなく集まる会」の新居や石川や村松らはいわば自由クラブの顧問格で、わたしたち戦後派をなんとなく応援してくれたのである。
 その「シミズ」の狭い椅子に窮屈そうに座って趣意書を読み上げた新居の姿は印象的だった。今でも新居というとその姿が浮かんでくる。
 考えてみれば朝鮮戦争の昭和二十年代には必然的に理想社会が実現されるという唯物史観が流行っており、その唯物史観によれば「村」は封建時代の代物とされていた。そんな時代風潮のなかであえて理想郷として「村」を新居が掲げたことは忘れない方がいいと思う。
 もっとも新居が唯物史観なぞを意識してあえて「村」を掲げたかどうかは分からない。そもそも唯物史観とか共産主義(マルクス・レーニン・スターリン主義)なぞ、新居の眼中にはなかったようである。
 先の「自由クラブ」でわたしたちは『アフランシ』というリーフレットを発行したが、その第一号(昭和二六・四)に「フリードムとリバァチー」という短いエッセイを新居は寄せている。
 
「『デア・モナアト』誌にハアバアート・リードが寄稿した論文「共同社会における文化」の中に面白い記述があったから、それについて一筆する。じつは知らないのは私だけで、多くの人々は知っているかも知れないが、私同様の人たちも皆無ではないと思ったので。
 ドイツでは自由をフライハイトといい、フランス人はラ・リベルテという。そのラ・リべルテは、英語のリバチーに相応する。仏独両国では一つの言葉で二つの目的に役立つのだが、イギリスではフリードム、リバチーの二つの言葉があって、同じ意味ではないのだという。私の知らないのはそこだった。しかしリードはいう。「しかし、これら二つの言葉の間になさるべき区別は本質的にわれわれの今日の討議である」と。
 彼は次のようにかいている。
 「リバチーは秩序的観念である。―わたしはこれをまあ法律的観念、行政法に用いられた一つの表現だといってもよいかも知れない。それは二つの当事者、国家と民衆といった関係を表示するようなものだ。フリードムは文化的観念である」
 こういう風にかき出して彼は両語の区別をのべているが、われわれはその区別を今日までハッキリと知らなかったのは迂闊であった。
 自由について、日夜、考慮をめぐらしているもののためにかいたのである。」

 『デア・モナアト』とあるからおそらくドイツ語の雑誌だろう。どうやって新居がこのドイツ語の雑誌を手に入れたのか、またリードはドイツ語でこの文章を書いたのか、それとも英文の翻訳なのか、いろいろ疑問はあるが、それはさておいて、おそらく新居はリードにいち早く注目していたことは確かだし、フリーダムとリバチーの相違を初めて問題視した戦後の日本人だったこともたぶん間違いないだろう。
 わたしも新居の驥尾に付してリードの論議に学びながらこの問題についてあれこれ考えたことが思い出される。それは「現代を超える自由の哲学」(『思想』昭和四四・十月号初出、『ロマン的反逆と理性的反逆』太平出版社 昭和四七所収)にまとめられた。わたしが新居に学んだことの一つなのであえて書かせていただいた。
 ところで新居が書いた「世界の村」の趣意書は松尾が仏訳し、松尾の知人が英訳をするなどアピールの準備は着々と進められた。パール・バックに送ろう、アインシュタインはどうだ、ヘルマン・ヘッセは、いやサルトルがいい、ピカソにも送りたいね、バートランド・ラッセルを忘れちゃいけない等々、各国の錚々たる知識人にこのアピールを送ろうと話し合っている間がどうやらこの試みの花だったようだ。
 実際にアピールが送られたのかどうか、確かめたわけではないが、どこからも応答がなかったことだけは間違いない。夢はついに夢だったのかもしれない。
 新居はその年(昭和二六年)春に病に倒れ、十一月十五日に亡くなった。

〈おおさわ まさみち〉
一九二七年名古屋市生まれ。一九五〇年東京大学文学部哲学科卒業。在学時からアナキズムに傾倒し、日本アナキスト連盟に加盟、機関紙の編集を担当。卒業後平凡社に入社。平凡社では編集局長、出版局長、取締役を経て一九八六年退社。
 著書に『自由と反抗の歩み』(後に『アナキズム思想史』と改題)『石川三四郎 魂の伝道師』『忘れられぬ人々』『アはアナキストのア』など。共編著に内村剛介との『われらの内なる反国家』、松尾邦之助『無頼記者、戦後日本を打つ 1945・巴里より敵前上陸』の編・解説など。

【書籍概要】
『杉並区長日記ー地方自治の先駆者・新居格』

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